片想い ここで Finally

SFC15→丸の内OL / 好きなものに片想いでは終わらせたくない

*人々はそう 帰る場所があるのでしょう

 

人々には家という帰る場所がある。

わたしにも実家という帰る場所がある。

 

一人暮らししている家はあるけれど、

わたしが『帰る』のは実家だけである。

 

 

 

実家が変わる。

わたしの中では『実家がなくなる』というニュアンスに

近いのだけれど、『実家』という存在がなくなるわけではないから…

 

と思ったのだけれど、実家の定義とは?

自分の生まれた家。

らしい。だと違う。

 

じゃあ、ここでは実家を

『人生の多くを過ごした、両親の住む家。』にする。

 

そうなると実家はなくなる。

正式にはもうわたしたち、両親のものではなくなるのだ。

 

言葉にどうして良いかわからないほど悲しい。

引越しを思うたびに、涙がとめどなく溢れてくる。

 

この涙なぜ出てくるのか。

それはいわずもがな、寂しいからである。 

 

自分が20年近く住み慣れたこの愛おしい我が家。

苦楽を共にしてきた我が家。

どんなに悲しいことがあっても、

どんなに嬉しいことがあっても、

いつもの道を辿って帰ってきた我が家。

 

かけがえのない、大好きな我が家。

 

一度、わたしは小学生か中学生の頃

こんなに愛おしい我が家のことを

「オンボロ家」と言ってしまったことがある。

 

隣の芝生は青いというもので、

新しく建っている家、テレビでおしゃれな家を見るたび

そっちの方が良いなあなんて思ったことはしばしばある。

 

しかし、この家を手放すとなると

人間(わたし)って不思議なもので、身勝手なもので

これ以上の家はこの世に存在しないと思うのである。

すごく誇らしいのである。

 

 

引越しまであと1ヶ月であるが、

なんとかして受け入れなければならない現実である。

 

なんとかして受け入れなければならないから

こう言い聞かせている。

 

「いつかこの家を手放す日がくることは決まっていた。

それが今になっただけ。」

 

わたしは今神奈川の大学に通っている。

絶賛就職活動中の大学3年生であり、

就職は東京以外することはさらさら考えていない。

 

そうなるとわたしが実家で暮らすことはなく、

仮に両親が住み続けたとしても

いつか終わりがくることは明白である。

 

だから、この家を手放す日はいつかはくる。

 

そして、そのギリギリまでこの家は

わたしたちのものであり続けたら

より長い期間住むことになり

その分だけ残酷にも思い出と愛着が増えてしまう。

 

寂しさを感じるのは思い出と愛着があるから。

 

このまま住み続けたら

この寂しさというものは

わたしには抱えきれないほどのものになっているはず。

 

だから、今が一番良い時

そう自分に言い聞かせてる。

 

引越しの準備がまだまだだから

寂しさを割り切れたり、

心の準備をしたりはできていない。

 

お風呂に入ってても

トイレに入っても

寝床について天井を見上げても

「あと何回この眺めが見られるのだろう」

と考え出してとまらない。

 

寂しさに早くなれたいと思う反面、

その寂しさになれて強くなってしまう自分のがもっと怖い。

 

だから今はまだ寂しさを持ってもいいのかな。

まだこの家を思って涙を流してもいいのかな。

 

 

 

幸せになることを望むのが最大の思いやりだから、

この家は次に住む人に大切にされて

暖かく新しい家庭を包み込んでいてほしい。

 

 

この先どうなろうと

わたしが(今のところ)人生の大部分を

この家と共に過ごしてきたという事実は変わらないから。

 

思い出も消えたりしない。わたしが忘れないから。

 

 

気持ちの整理というものがまだついていないものだから、

また記事を更新したい。

 

もうどうして良いかわからず

書きなぐったような更新。

 

おやすみなさい。

 

 

歩道の向こう 夕焼けに染まる

人々はそう 帰る場所があるのでしょう

 

空はあかく染まって

帰る道”まぼろし”

 

まぼろし

まぼろし

  • provided courtesy of iTunes

 

わたしがこれまで歩んできた帰路は

まぼろしでありますように。。。

 

 

 

 

A n n a

*正しさはなくとも 握りしめていたいもの

 

iTunesイコライザーいじいじして

音楽を聞いていたら(ほぼGARNET CROW

なんだか勢いでブログを書きたくなりました。

 

多分、今日アルコール度数が高いお酒を

たくさん飲んだから

酔いにくいわたしが酔っているというのもあります。

 

きっと。

 

そして、まもなく日付をまたぐ頃(現在23:44)

深夜テンションもあります。

 

 

 

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受験で望んでいた結果にならなかった子の話を書いた

3月17日のブログ、これをなぜか頻繁に思い返す。

annlily.hatenablog.com

 

 

「絶対大丈夫だから!」と前日に抱擁して送り出した生徒

 

この間まで実家に帰って、恒例の塾講のバイトをしていて

受験前日の3月9日以来会ってないこの彼女に会ったのだ。

 

わたしを見るなり

「受験前に頑張ってって言ってくれてありがとうございます!

…頑張ります!」

って言ってくれた。

 

お礼を言ったあとから「頑張ります」まで間があった

と記憶しているのだけど

彼女なりに受け入れて前を向いて進んでいることがわかるほど

笑顔できっぱりと言い切ってた。

 

「何してるかな、元気に学校に行ってるかな」

って気になっていたから

ものすごく嬉しかった。

 

前を向いて歩んでいる子だけに

良い未来が待っていると私は思っているから

彼女が楽しく充実した3年間を

今通っている学校で過ごせるはず。

 

高校入試が全てではないことを

きっと彼女は気付けている。

 

ここまで雑談ね。

 

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多分ここから長くなりそうだから、いつもの文中の改行を無くします。

 

「正しさってなんだろう」って6月くらいからずっと考えててタイミングよく政治哲学で正義についての講義があったのだけれど未だに明確な答えを見つけることができずにいる。

 

正義論の話をする前に義務論と目的論について話そう。

 

 「なんで人を殺してはいけないの?」と子供に聞かれたとしよう。これに対してどう答える?

 わたしはきっと「人を殺すということは法に触れるからだよ」と答えると思う。つまり「ダメなものはダメ」ということである。

 この他に「人が悲しむからだめ」と答える人もいるだろう。わたしの答えはright(正)が根拠の義務論(deontology)である。義務論は「行為の価値は、行為様式そのものの価値で判断される」。つまり、その行為そのものが正しいかどうかということ。人を殺すというのは、どのような結果をもたらしても、それ自体が正しくない。

 “Let justice be done, though the world perish”と神聖ローマ皇帝のフェルディナンド1世が言ったとか。フェルディナンド1世は英語で言ってなくて“Fiat justitia, et pereat mundus”とラテン語で言ったのですが。“fiat justitia”とは“let justice be done”という意味である。要するに「正義はなされよ、たとえ世界が滅んでも」ということ。政治哲学の先生は「正義はなされよ、よしや世界が滅ぶとも」と訳してる。(多分政治哲学の先生の名前でググったらこのブログがヒットするかも) つまり、結果世界が滅ぶことになっても、自分が正義と思うことをしろということです。誰もが耳にしたことがあるであろうカントは“Let justice reign even if all the rascals in the world should perish from it”と言い換えている。また、似たような表現で“Fiat justitia, ruat caelum”がある。これは“Let justice be done, though the heavens fall”ということでほとんど同じ意味でしたね。ここの深堀は別の日にでも…

 

 さて、次に「人が悲しむからだめ」という道徳的な回答はgood(善)や有用性が根拠の目的論(teleology)or帰結主義である。目的論は「行為の価値は、その行為がもたらす帰結・目的によって判断される」。つまり、目的が良いのか有用的なのかの理由を述べるということ。人が殺されて『誰かが悲しむ』という結果が良くないから正しくないよねって。

 目的論の典型例は「よりよい善、例えば平和のためには戦争は仕方ない」という正戦論(bellum justum)である。さらに噛み砕くと「正当化される戦争」ということ。これってISや日本赤軍がやってることなのでは?と思う。

 ちなみにね、帰結主義は行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結を考慮に入れる立場のこと。

 

 “Let justice be done, though the world perish”って好きな言葉だから義務論の方が長くなってしまった。義務論的思考だからこの言葉が好きなんだなってこれ書きながら思ったところで、今度は正義論の議論様式について書きます。

 

正義論の議論様式には①適法的正義、②形式的正義、③実質的正義がある

 

①適法的正義

 「正義は法である」、だから法にかなっていたら正しいということ。

 つまり、悪法も法ならば、その他の法と変わらないのでは?ということ。わたしは柔軟性のない人間で、『そのもの』を『そのまま』受け取ることしかできない融通の利かない人間だから、悪法であっても法であることには変わらない!と考える。でも、それがなぜ悪法なのかって原因を追求していくと「あれ、これってだめじゃない?」って思うんだよ。でも法だし…いや、でも良くない…という堂々巡りだから深く考えず、悪法も法!だから正しいの!と考えることにしてます。考えるのがめんどくさいだけなのもあった。

 ちなみに、政治哲学の先生は「共謀罪などの悪法存在を考えるべき」と言ってたけど、ソクラテスは「悪法も法なり」と言ってた。

 

②形式的主義

 「等しきものは等しく、等しからざるものは等からざるように扱え」。つまり、「同じカテゴリーにあるものは同じように扱おう!」ということ。となると、「等しい / 同じ」の基準って何?ってなる。例えば、『人間は等しい』とする。そうすると、『男性も女性も大人も子供も同じように扱え』ということになる。でも男女の性差はどうする?大人も子供も一緒くたにしていいの?ってなる。差異があるって不正義だよね。

 

③実質的正義

 これは配分的正義、矯正的正義、交換的正義がある。(ホッブズが矯正的正義を交換的正義という)

 ちょっとここでアリストテレスの話。アリストテレスは、広義としての正義と狭義としての正義を区別をしている。さらに、狭義としての正義を配分的正義と矯正的(交換的)正義に分けている。

 

 配分的正義は利益や損失を各人の有する価値(業績や能力など)に応じた分配が正義(アリストテレス)である。たとえば、いっぱい働いた人にはたくさんお給料をあげる、とか、ケーキを分けるときに大きい人には大きいピースを、小さい(大きいの対義語として使ってるだけ)人には小さいピースを、とか。「各人には彼のものを(suum cuique)」(キケロ)とかも配分的正義だけど、この文言はナチスがの強制収容所のスローガンに使ってたからあまり良い印象はない。

  矯正的正義や交換的正義は何かしらの差異はある(不平等である)けれど、それを見ずに平等とするとそれは同時に不平等も生じる正義。たとえば、ケーキを体格の差異なしに同じ大きさに切り分ける、とか。これは形式的正義でもある。だっと差異を配慮してないもの。

 公正としての正義を考えると「機会の平等」と「結果の平等」がある。結果の平等は競争原理がない。なぜなら、各人の努力や能力差の配分をしないから努力を削いでしまって、なあなあとなってしまうから。たとえば、ソ連は働いた人にも働いていない人にも同じお給料をあげていた。そしたら、みんな楽したいから労働意欲がなくなって、正直者が馬鹿を見ることに。わたし、正直者が馬鹿を見たり、真面目に生きている人が馬鹿を見たりするのが本当に許せない。だから矯正的正義とか交換的正義は正義ではない。ちゃんとその人の努力とかに目を向けてほしい。“to each according to his merits”、それが正義ではないのか。

 

だから、配分的正義が正義論の現形式となったのだけど。

 

 

 

書き始めて2時間たったので(現在2:04)、ポッブズの交換的正義についてから次回らへん書こうと思う。頑張った。

 

 

 

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GARNET CROWのラストシングルが『Nostalgia』であった。

 

Nostalgia

Nostalgia

 

この記事のタイトルは実はNostalgiaの一説で、

わたしの好きな歌詞の一部分。

 

I'll never find 正しさはなくとも握り締めてこの手にとどめたい

ここが本当に力強くて正しさはなくても強く、強く

握りしめていたいって思える。

 

何を握りしめるのかっていうと、歌詞によると

『漂う波に かき集めるような絆』のことなんだけど

『明確な正しさはなくても自分の正しさ(正義)を

握り締めてわたしの手にとどめたい』って思ってる。

 

前者が正解なのかって言うとそれは一生謎で

たとえ作詞した七さんに聞いた所で教えてくれる筈もなく。

 

というのも、七さんは聞き手の受け取り方に全てを委ねていて

聞き手が受け取った意味が正解らしいので。

 

 

わたし、この解釈をするまで、七さんのこのポリシー

あまり理解できなかったけど

こう言ってくれることに今はすごく救われてる。

 

 

ラスサビも

I'll never find 正しくはなくとも強く強くこころに広がる

ってあって、これも言わずもがな、こころに広がるのは

『わたしの正義』だと思う。

 

 

 

故郷に思いを馳せて、ようやく床につく。

 

 

 

 

 

A n n a

 

 

 

*reality or fantasy

 

夜が深けたこの時間に

なんとなく書きたくなって更新してみる。

 

夜って感情任せになってて

朝目が覚めると「こんなこと書いてたの…」

って軽く自分が恥ずかしくなることがあるから、

いつも夜遅くにレポートとかレジュメを書いたら

ちゃんと翌朝読んで直す。

 

 

何事も早めに始めても損はないよねってことで

就活を始めることにした。

外資とか行きたい人はもう始めるみたいだけど)

 

わたしは外資とか考えてなくて、

英語大事!英語でなきゃ無理!みたいな

会社には興味がない。

 

日本人なら日本語だよ!っていう考え。

保守的な人間だから。笑

 

 

大学生になるってことは

どんどん大人に近づいてることで

(ここでの大人は社会人として定義します)

大人になるってことは

現実に向き合わずにはいられなくなるってこと

だと高校生から思ってる。

 

高校の倫理の先生(わたしは倫理受けてない)と

「夢をみるということは現実から離れること」

って話してた記憶がある。

 

だから大学生になったら夢なんて見てられなくて

夢を持つことさえもできないと思ってたから

将来に対しては漠然にしか考えられなくて

「いつか真剣に考えなきゃいけないときがくるからそのときでいいや」

と思ってたのだが、その「いつか」がとうとうやってきたのです。

 

完璧なる自分のタイミング。

 

そんなわたしに夢というか目標がたくさんできた(・ω・)ノ

 

就職関連では

丸の内で働く!!!

 

会う人会う人にわたしは

「丸の内OLになりたい〜!」って言ってる。

 

なんで丸の内なのかっていうと

丸の内が好きだから!

 

丸の内のどこが好きかっていうと

丸の内の東京感がすごいから!

(もっと賢そうな表現がしたい…)

 

わたしはこれまで、両手では数え切れないほど

新幹線に乗って東京駅で降りてきた。

 

けど、何度も見慣れてる、感じ慣れてるはずなのに

東京駅のホームに足をついた瞬間に感じる

「東京だ〜!(わくわく)」と感じる胸の高鳴りと新鮮さ

言葉にできない独特の雰囲気が毎回ある。

 

いつまでも経ってもその新鮮さが色褪せないのって

珍しいと思ってるし、

歴史的には東京の玄関口は上野駅と品川駅なのに

その歴史さえも凌駕する東京ってなんなんだろう…

 

反対に山形新幹線利用の私からしたら

上野駅なんてただの通過駅だからね。

 

上野東京間の徐々に東京に近づいてる

車窓から見える景色がもう大好き。

 

そんなこんなで東京駅(丸の内)に

魅了されたから

わたしはその大好きな土地で

仕事をしていきたい。

 

ぬかりなく

 

 

 

 

うまくまとめられない…

 

 

A n n a

*April 22nd . Saturday / call my name

 

実に1ヶ月ぶりの更新。

 

去年の暮れからじわじわと大げさのようだけど

ものすごく人生が変わってきた。

 

それは良い意味での変化で

若干メンヘラ気質で何事も心配ばかりしてて

何事にも怯えてて、自分がそんなに好きでなくて

だから自分に自信がなくこれまで生きていた。

そのことが無駄であることに気づき、

今は人生がとても楽しく、毎日を楽しんで生きてる。

 

新学期も始まって、わたしもとうとう3年生になった。

 

ドイツの詩人であり戯曲家のシラーの言葉に

人生は退屈すれば長く、充実すれば短い

があって、まさしくそうだなって。

 

きっと人生が楽しくて充実してる「今」はあっという間に

過ぎ去って、気づいたらわたしは4年生になり、就職していくのだろう。 

 

 

 


 

 

今日の記事のサブタイトルのcall my nameは

わたしが心から愛するGARNET CROWの8枚目のシングルで

なんと今から16年前の2001年8月8日発売された

かなり前の曲である。

 

call My Name

call My Name

 

 

16年も前なのかってさっき調べて驚いた。

そんな昔のものって感じさせないほどに褪せてない。

 

最近 call my name を毎日5回くらい

聴いてるほどにはまってしまった。

 

メロディーもアレンジも全て好きなのだけれど、

22歳のわたしが今すごく、すごく好きで

心に響いているのが歌詞である。

 

初めて call my name を聴いたのは

多分小6くらいで、そこからつい最近まで

歌詞の意味をよく理解できず

「とにかく名前を呼んでほしいんだな」っていう

曲名だけからでも容易に想像つく感想しかなかった。

 

それに初っ端から出てくるRembrandtが

何かわからず調べたら画家ってわかって

中学の担任が美術の先生でRembrandtの話をしたら

レンブラントの作品の特徴が光と影の表現だって言われたのを

10年経った今でも覚えてる。

 

そして、『贋作』という言葉が出てくるのだけれど

ヴォーカルの中村由利の歌い方は

ちょっと聴き取りづらいものがあって(そこが好きである)

なんて歌ってるかわからないし、漢字も読めずに困ってた。

 

カラオケで『がんさく』って読むことを知るんだけど。

 

そして、もちろん読めない漢字だったから

意味もわからなかった。

 

歌詞に

白い壁と Rembrandt

いつまでも眺めていた

日曜の朝君とただ並んでた

(中略)

チープな贋作を集めてみて

一枚づつ週変わりにして

ってあるんだけど、

日曜の朝に君と並んで見ていた

レンブラントの作品は贋作なのか!

なんて今気づいた。

 

それはさておき、

この曲は自分の結婚式で流したいって思うほど

温かいラブソングであり、

好きな人と過ごす何気ない毎日に幸せをかみしめてる

そんな歌詞である。

 

特にわたしが好きな歌詞が

君と歩いてゆく日々に 

偶然重ね続けて運命の輪にしてく

そんなイメージを描いてゆくよ

 

好きな人と一緒に毎日を過ごすという偶然を

いくつも、いくつも重ね続けて

それを運命にしていくイメージをしてる

っていうなんともロマンチックな考えが大好きである。

 

結婚する人は「運命の人」と言われていて

それは生まれたときから決まっているわけだけでなく

出会った誰かとの偶然が重なって

それが運命になっていくっていうこともある。

 

そんな七さんの考え方も大好きである。

 

 

 

呼びなれた名前何度も

二人しかいない部屋で 

ちゃんと呼んでくれる

ただ そんなことが

暖かく響く何よりも甘く be aware

見えない気持ち信じてしまいそう

変わらない声で please call my name 

ふと思い出したように call my name

 

この2ヶ所に『call my name』の全てが収束されてると思う。

 

名前を呼んでくれるという当たり前すぎて些細なことに

幸せを感じるから名前を呼んでほしい、と。

 

確かに一緒にどこかにお出かけするのも楽しいし幸せである。

 

けれでも、それ以上に日常の中の当たり前のことに

幸せを感じられることが「贅沢」である。

 

そんな考え方が人生が変わった今のわたしの考え方と一致している。

 

 

幸せはなるものでなく、

幸せは自分のまわりに溢れるほどあるから、見つけ出すもの。

 

好きな人に名前を呼ばれることがなんて幸せなことか。

 

call my name

call my name

 

 

iTunesを2つ貼ったのはミスでなく、

どちらも流れる箇所が違うからだよ!

 

 

A n n a

 

 

 

*March 17th Friday / Life is so long

 

今日、3月17日はわたしの地元の

公立高校入試の合格発表の日。

 

 

今から7年前、わたしもものすごいドキドキしながら

今日を迎えていた気がする。

(大学入試の合格発表ほどじゃないけど)

 

中学生のわたしは高校受験に

信じられないくらいに追い詰められていて、全てをかけていた。

 

街行く大人を見ては

「この人も、この人も、高校入試を経験してるのか…」

なんてひたすら、ひたすら考えてた。

 

そして、合格できないことは人生の終わりである

とさえも思っていた。(気がする)

 

志望校合格に対する自信、

そして自分の中学の3年間この入試を意識してきた情熱

それらがここまで高校受験に命をかけていた原因ではないかと

今となっては思う。

 

もともとわたしが受けたところは倍率が低かったし

「あんなちゃんなら絶対大丈夫〜!」って

耳が腐るほど言われるくらい安全圏だったから(今だから言える)

受かってたけど、

「まあ当然だよね」っていう生意気な思いが

心のずーっと奥の片隅にありながらも

自分の受験番号を見つけたときはとても喜んだ。

 

大学入試も経験した身になると

大学合格の喜びは比じゃなかったけどね。

 

 

そんなこんなでちょっと7年前を懐かしんでみた。

 

 

 

そして、一番書きたかったことはここからである。

 

わたしは長期休みになると帰省して

自分が通っていた学習塾でバイトしている。

 

なぜか、担当してない生徒からも顔を覚えてもらって

声をかけてもらっている。

これはとても嬉しいことである。

 

だから塾に通う子たちはみんな

誰一人残らずとても可愛いし

ものすごく応援してた。

 

もともとお腹の弱いわたしが

今朝からお腹の調子が悪かった。

それは今日という日に緊張しているからだった。

 

それくらい生徒のみんなの結果が気がかりだった。

 

 

塾にいて結果を待つそわそわ感は

多分何回経験しても慣れないんだろうなって

常勤の先生の様子を見ていて思った。

 

鳴り止まない電話、まるばつを名簿につける副塾長。

 

固唾を飲みこむってこういうことか

なんて考えながら、その筆先を追っていた。

 

予想を大きく裏切ったばつの数。

 

特にわたしを好いてくれていた生徒

そして、

「絶対大丈夫だから!」と前日に抱擁して送り出した生徒。

 

遣る瀬無い気持ちがひたすら重くのしかかってきて

「大丈夫だから」と言ってしまった罪深さ、

なんて無責任なことを言ってしまったんだろうと。

 

言葉って無力だと思うときはある、

けどそれに矛盾してとても残酷であり、

言葉だけじゃなく、

優しさも時に棘を持つものであることを

痛いほどに感じた。

 

 

 


 

 

大学生になった今、

しかも浪人して

高校入試が全てではないことは明確にわかる。

 

なんであんなに人生かけてたんだろうって

中学生の自分の頭の中を見てみたいくらいに

今はそこまで思い詰めなくてもいいよって言いたい。

 

だから、今回不合格だった子たちに

「高校入試が全てじゃないよ」って言いたい。

 

けど、そんなことはもちろん言えないわけで

いつかそのことに気づいて

今日を笑い飛ばせる日がくるのを待っててほしい。

 

これは志望大学に2回落ちてるわたしが

胸を張って言えることだと思ってる。笑 

 

 

そして、今まで塾に夜遅くまで残って勉強してきたこと

土日も塾に足を運んでわからない質問をしてきたこと

これらは決して無駄じゃなかったことを忘れないでほしい。

 

れいごとのようだけど

合格に向けて自分たちがしてきたことを否定してはほしくない。

 

いつか、きっといつか「頑張っててよかった」って

思える日がくるから。

 

 

ZARDの『止まっていた時計が今動き出した』って歌で

 

 

止まっていた時計が今動き出した

止まっていた時計が今動き出した

  • ZARD
  • ポップ
  • ¥250

 

 

 

わたしが大好きな詞があって、それが

まわり道も 意味のある修行(おしえ)と気付く日が来る

きっとどこかへと つながっている

 

合否を知って、このフレーズが真っ先に浮かんで

不合格はまわり道じゃないけど

この出来事も「意味のある修行(おしえ)」であることに

気付く日が必ずくる。

そして、この出来事さえも未来の自分に繋がっている。

 

わたしも浪人したことをものすごく後悔してたときがあって

でも、この曲を聴いたら前向きになれて

今は浪人を自分の人生においては後悔はしてない。

(家族にものすごい迷惑と苦労をかけた点では後悔してるけど)

 

 

 

最近読んでる本が新堂冬樹の『カリスマ』で

 

カリスマ(上) (幻冬舎文庫)

カリスマ(上) (幻冬舎文庫)

 

 

その中に受験戦争うんぬんがかなり書かれているから

最近受験に対して疑問とか考えることがあるのかな。

 

 

 


 

 

なんて締めようか…

 

とりあえず、受験おつかれさま。

多くの子たちはまた3年後、頑張って。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

A n n a 

 

 

 

 

*March 6th. Monday / just because

 

2017年になってから初めて書くブログだ〜

 

今日はタイトル通り

「ただなんとなく」更新したくなって

キーボードに向かっているのです。

 

わたしのMacBookのキーボードが1年くらいも前から調子悪い上に

勝手に画面が真っ黒になることが多くて

パソコンなしじゃ生きられないけど

億劫なわたしは昨日やっと、やっと、Apple Storeに行ってきたのです。

 

担当してくれた人がとても優しくて

Macを入院」「健康診断」とか言ってて

(・ω・)< Apple愛を感じる

って思ったのよね。

 

結局検査?してハードに問題はないから

とりあえず様子見てそれでもだめだったらまた来て

って言われた。

 

そのAppleの人から

「たくさん楽しんでくれていろいろやっているのが

伝わってくるパソコンだから大切にしてね」

って言われて、

(・ω・)< わかる人はわかるんだ〜!

って感動した。

 

最新のMacBookはピンクのもあって

薄いし解像度もめちゃくちゃ高いし

すごく欲しくなったけど

せっかくなら4年間今のMacBookと過ごしていきたい

って思ったのです、辛い時も楽しい時もそばにあるから。

 

 

 

 

 

もう書くことがない…

 

 

 

A n n a

 

 

*November 29th . Tuesday / 大人って大したことない!

 

わたしは、漠然としてるけど

ずっと大人って「すごい」存在だと思ってたんだよね。

 

ほんとつい最近までそう思ってて

それってまあわたしがまだ子どもだって

ことなんだろうけど。

 

ていうか大人ってなんだろうって思って

調べたら

一人前に成人した人。

ってあるんだけど、成人は20歳から。

 

だと20歳すぎたらみんな大人?

 

いえ、一人前でない成人は大人ではありません。

 

では、一人前とは?

 

なんと一人前とは

成人であること。

らしい…

 

じゃあ成人していればいいの…?

 

わたし成人してるけどまだ自分が大人である自覚は

微塵もありませ〜ん(❀╹◡╹)ノ

 

だって、まだ自分でお金を稼いでそれで生活をしていない。

両親なしでは到底も生きていけない。

 

両親が働いて得たお金で大学に通わせてもらって、

東京で生活させてもらっている。

 

病院行くことさえも自分で判断できなくて

一々お母さんに電話して

「こうこうこうなんだけど、これって病院いくべきかな〜?」

なんて聞いてる始末。

 

さすがにこれは自分で判断しろよって

書きながら思った(笑)

 

成人はしているけど、自立も自律もできてない。

 

これって大人じゃないよね。

 

だと、就職して自分で働いたお金で生活できるようになったら

わたしは大人になれるのかって思っても

そりゃあその時にならないとわからないよ。

 

しかも、無職の人に対して

「いい大人が〜」なんて思うから

決して働いてるからといって

大人であるってわけじゃないんだよね。

 

難しい

 

ただ、今明確にわかることは

わたしは決して大人なんかじゃなくて

「大人」という存在の定義は人によって違うこと。

 

わたしから見た「大人」というのは

ここではとりあえずわたしより割に年上の人にします。

 

やっぱり自分より割に年上の人なんだから

わたしよりずっと人生経験しているから

それなりの礼儀とかわたしみたいなへっぽこよりできて当たり前。

 

そう思ってたけど、

 

実際そうじゃないんだよね!!!!!

 

大人は子どもに「ちゃんとしろ」「勉強しろ」とか

いろんなことを上から目線で物事を語るけど

そういう大人たちはちゃんとできてるのかって考えると

そうじゃないんだよ。

 

最近あったことでいうと

普通に大事なメールを確認しない・返信しない、

通行人の邪魔になってても動かない

ケチ(アドバイス)はつけるけど具体的なことは言わない

とかとか…

 

こんなん言い出したらキリないよ!

 

こういうのって大人だから当たり前にできてるって

思ってたのにまーったくできてない大人がいるの!

 

それに振り回されて嫌な思いをして

「なんで大人なのに!!!( •᷄ὤ•᷅)トゥワ?」って。

 

そうイライラもやもやしてる時に

研究会の院生さんから言われたのが

「大人って大したことないことに気付くんですよ」って。

(一字一句同じじゃないけどこんな感じ)

 

そこでね、「あ〜〜〜」って

もはや一種のアハ体験。

 

そうか、大人って自分が思ったほど大したことないんだ!

って気づいてものすごく楽になった。

 

そうなんだよ、大人って大したことないんだよ!

 

こんなに腑に落ちた言葉ないから何度も言うよ。

 

 

とまあ、そんなこんなで

大人は大したことじゃないことに気づいたのです。

 

それって自分が大人になったから?

 

でもこれだけは言えるの。

自分がそう思えるほどに成長したってこと。

 

 

 

A n n a