*正しさはなくとも 握りしめていたいもの
音楽を聞いていたら(ほぼGARNET CROW)
なんだか勢いでブログを書きたくなりました。
多分、今日アルコール度数が高いお酒を
たくさん飲んだから
酔いにくいわたしが酔っているというのもあります。
きっと。
そして、まもなく日付をまたぐ頃(現在23:44)
深夜テンションもあります。
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受験で望んでいた結果にならなかった子の話を書いた
3月17日のブログ、これをなぜか頻繁に思い返す。
「絶対大丈夫だから!」と前日に抱擁して送り出した生徒
この間まで実家に帰って、恒例の塾講のバイトをしていて
受験前日の3月9日以来会ってないこの彼女に会ったのだ。
わたしを見るなり
「受験前に頑張ってって言ってくれてありがとうございます!
…頑張ります!」
って言ってくれた。
お礼を言ったあとから「頑張ります」まで間があった
と記憶しているのだけど
彼女なりに受け入れて前を向いて進んでいることがわかるほど
笑顔できっぱりと言い切ってた。
「何してるかな、元気に学校に行ってるかな」
って気になっていたから
ものすごく嬉しかった。
前を向いて歩んでいる子だけに
良い未来が待っていると私は思っているから
彼女が楽しく充実した3年間を
今通っている学校で過ごせるはず。
高校入試が全てではないことを
きっと彼女は気付けている。
ここまで雑談ね。
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多分ここから長くなりそうだから、いつもの文中の改行を無くします。
「正しさってなんだろう」って6月くらいからずっと考えててタイミングよく政治哲学で正義についての講義があったのだけれど未だに明確な答えを見つけることができずにいる。
正義論の話をする前に義務論と目的論について話そう。
「なんで人を殺してはいけないの?」と子供に聞かれたとしよう。これに対してどう答える?
わたしはきっと「人を殺すということは法に触れるからだよ」と答えると思う。つまり「ダメなものはダメ」ということである。
この他に「人が悲しむからだめ」と答える人もいるだろう。わたしの答えはright(正)が根拠の義務論(deontology)である。義務論は「行為の価値は、行為様式そのものの価値で判断される」。つまり、その行為そのものが正しいかどうかということ。人を殺すというのは、どのような結果をもたらしても、それ自体が正しくない。
“Let justice be done, though the world perish”と神聖ローマ皇帝のフェルディナンド1世が言ったとか。フェルディナンド1世は英語で言ってなくて“Fiat justitia, et pereat mundus”とラテン語で言ったのですが。“fiat justitia”とは“let justice be done”という意味である。要するに「正義はなされよ、たとえ世界が滅んでも」ということ。政治哲学の先生は「正義はなされよ、よしや世界が滅ぶとも」と訳してる。(多分政治哲学の先生の名前でググったらこのブログがヒットするかも) つまり、結果世界が滅ぶことになっても、自分が正義と思うことをしろということです。誰もが耳にしたことがあるであろうカントは“Let justice reign even if all the rascals in the world should perish from it”と言い換えている。また、似たような表現で“Fiat justitia, ruat caelum”がある。これは“Let justice be done, though the heavens fall”ということでほとんど同じ意味でしたね。ここの深堀は別の日にでも…
さて、次に「人が悲しむからだめ」という道徳的な回答はgood(善)や有用性が根拠の目的論(teleology)or帰結主義である。目的論は「行為の価値は、その行為がもたらす帰結・目的によって判断される」。つまり、目的が良いのか有用的なのかの理由を述べるということ。人が殺されて『誰かが悲しむ』という結果が良くないから正しくないよねって。
目的論の典型例は「よりよい善、例えば平和のためには戦争は仕方ない」という正戦論(bellum justum)である。さらに噛み砕くと「正当化される戦争」ということ。これってISや日本赤軍がやってることなのでは?と思う。
ちなみにね、帰結主義は行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結を考慮に入れる立場のこと。
“Let justice be done, though the world perish”って好きな言葉だから義務論の方が長くなってしまった。義務論的思考だからこの言葉が好きなんだなってこれ書きながら思ったところで、今度は正義論の議論様式について書きます。
正義論の議論様式には①適法的正義、②形式的正義、③実質的正義がある
①適法的正義
「正義は法である」、だから法にかなっていたら正しいということ。
つまり、悪法も法ならば、その他の法と変わらないのでは?ということ。わたしは柔軟性のない人間で、『そのもの』を『そのまま』受け取ることしかできない融通の利かない人間だから、悪法であっても法であることには変わらない!と考える。でも、それがなぜ悪法なのかって原因を追求していくと「あれ、これってだめじゃない?」って思うんだよ。でも法だし…いや、でも良くない…という堂々巡りだから深く考えず、悪法も法!だから正しいの!と考えることにしてます。考えるのがめんどくさいだけなのもあった。
ちなみに、政治哲学の先生は「共謀罪などの悪法存在を考えるべき」と言ってたけど、ソクラテスは「悪法も法なり」と言ってた。
②形式的主義
「等しきものは等しく、等しからざるものは等からざるように扱え」。つまり、「同じカテゴリーにあるものは同じように扱おう!」ということ。となると、「等しい / 同じ」の基準って何?ってなる。例えば、『人間は等しい』とする。そうすると、『男性も女性も大人も子供も同じように扱え』ということになる。でも男女の性差はどうする?大人も子供も一緒くたにしていいの?ってなる。差異があるって不正義だよね。
③実質的正義
これは配分的正義、矯正的正義、交換的正義がある。(ホッブズが矯正的正義を交換的正義という)
ちょっとここでアリストテレスの話。アリストテレスは、広義としての正義と狭義としての正義を区別をしている。さらに、狭義としての正義を配分的正義と矯正的(交換的)正義に分けている。
配分的正義は利益や損失を各人の有する価値(業績や能力など)に応じた分配が正義(アリストテレス)である。たとえば、いっぱい働いた人にはたくさんお給料をあげる、とか、ケーキを分けるときに大きい人には大きいピースを、小さい(大きいの対義語として使ってるだけ)人には小さいピースを、とか。「各人には彼のものを(suum cuique)」(キケロ)とかも配分的正義だけど、この文言はナチスがの強制収容所のスローガンに使ってたからあまり良い印象はない。
矯正的正義や交換的正義は何かしらの差異はある(不平等である)けれど、それを見ずに平等とするとそれは同時に不平等も生じる正義。たとえば、ケーキを体格の差異なしに同じ大きさに切り分ける、とか。これは形式的正義でもある。だっと差異を配慮してないもの。
公正としての正義を考えると「機会の平等」と「結果の平等」がある。結果の平等は競争原理がない。なぜなら、各人の努力や能力差の配分をしないから努力を削いでしまって、なあなあとなってしまうから。たとえば、ソ連は働いた人にも働いていない人にも同じお給料をあげていた。そしたら、みんな楽したいから労働意欲がなくなって、正直者が馬鹿を見ることに。わたし、正直者が馬鹿を見たり、真面目に生きている人が馬鹿を見たりするのが本当に許せない。だから矯正的正義とか交換的正義は正義ではない。ちゃんとその人の努力とかに目を向けてほしい。“to each according to his merits”、それが正義ではないのか。
だから、配分的正義が正義論の現形式となったのだけど。
書き始めて2時間たったので(現在2:04)、ポッブズの交換的正義についてから次回らへん書こうと思う。頑張った。
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GARNET CROWのラストシングルが『Nostalgia』であった。
この記事のタイトルは実はNostalgiaの一説で、
わたしの好きな歌詞の一部分。
I'll never find 正しさはなくとも握り締めてこの手にとどめたい
ここが本当に力強くて正しさはなくても強く、強く
握りしめていたいって思える。
何を握りしめるのかっていうと、歌詞によると
『漂う波に かき集めるような絆』のことなんだけど
『明確な正しさはなくても自分の正しさ(正義)を
握り締めてわたしの手にとどめたい』って思ってる。
前者が正解なのかって言うとそれは一生謎で
たとえ作詞した七さんに聞いた所で教えてくれる筈もなく。
というのも、七さんは聞き手の受け取り方に全てを委ねていて
聞き手が受け取った意味が正解らしいので。
わたし、この解釈をするまで、七さんのこのポリシー
あまり理解できなかったけど
こう言ってくれることに今はすごく救われてる。
ラスサビも
I'll never find 正しくはなくとも強く強くこころに広がる
ってあって、これも言わずもがな、こころに広がるのは
『わたしの正義』だと思う。
故郷に思いを馳せて、ようやく床につく。
A n n a