*人々はそう 帰る場所があるのでしょう
人々には家という帰る場所がある。
わたしにも実家という帰る場所がある。
一人暮らししている家はあるけれど、
わたしが『帰る』のは実家だけである。
実家が変わる。
わたしの中では『実家がなくなる』というニュアンスに
近いのだけれど、『実家』という存在がなくなるわけではないから…
と思ったのだけれど、実家の定義とは?
自分の生まれた家。
らしい。だと違う。
じゃあ、ここでは実家を
『人生の多くを過ごした、両親の住む家。』にする。
そうなると実家はなくなる。
正式にはもうわたしたち、両親のものではなくなるのだ。
言葉にどうして良いかわからないほど悲しい。
引越しを思うたびに、涙がとめどなく溢れてくる。
この涙なぜ出てくるのか。
それはいわずもがな、寂しいからである。
自分が20年近く住み慣れたこの愛おしい我が家。
苦楽を共にしてきた我が家。
どんなに悲しいことがあっても、
どんなに嬉しいことがあっても、
いつもの道を辿って帰ってきた我が家。
かけがえのない、大好きな我が家。
一度、わたしは小学生か中学生の頃
こんなに愛おしい我が家のことを
「オンボロ家」と言ってしまったことがある。
隣の芝生は青いというもので、
新しく建っている家、テレビでおしゃれな家を見るたび
そっちの方が良いなあなんて思ったことはしばしばある。
しかし、この家を手放すとなると
人間(わたし)って不思議なもので、身勝手なもので
これ以上の家はこの世に存在しないと思うのである。
すごく誇らしいのである。
引越しまであと1ヶ月であるが、
なんとかして受け入れなければならない現実である。
なんとかして受け入れなければならないから
こう言い聞かせている。
「いつかこの家を手放す日がくることは決まっていた。
それが今になっただけ。」
わたしは今神奈川の大学に通っている。
絶賛就職活動中の大学3年生であり、
就職は東京以外することはさらさら考えていない。
そうなるとわたしが実家で暮らすことはなく、
仮に両親が住み続けたとしても
いつか終わりがくることは明白である。
だから、この家を手放す日はいつかはくる。
そして、そのギリギリまでこの家は
わたしたちのものであり続けたら
より長い期間住むことになり
その分だけ残酷にも思い出と愛着が増えてしまう。
寂しさを感じるのは思い出と愛着があるから。
このまま住み続けたら
この寂しさというものは
わたしには抱えきれないほどのものになっているはず。
だから、今が一番良い時
そう自分に言い聞かせてる。
引越しの準備がまだまだだから
寂しさを割り切れたり、
心の準備をしたりはできていない。
お風呂に入ってても
トイレに入っても
寝床について天井を見上げても
「あと何回この眺めが見られるのだろう」
と考え出してとまらない。
寂しさに早くなれたいと思う反面、
その寂しさになれて強くなってしまう自分のがもっと怖い。
だから今はまだ寂しさを持ってもいいのかな。
まだこの家を思って涙を流してもいいのかな。
幸せになることを望むのが最大の思いやりだから、
この家は次に住む人に大切にされて
暖かく新しい家庭を包み込んでいてほしい。
この先どうなろうと
わたしが(今のところ)人生の大部分を
この家と共に過ごしてきたという事実は変わらないから。
思い出も消えたりしない。わたしが忘れないから。
気持ちの整理というものがまだついていないものだから、
また記事を更新したい。
もうどうして良いかわからず
書きなぐったような更新。
おやすみなさい。
歩道の向こう 夕焼けに染まる
人々はそう 帰る場所があるのでしょう
空はあかく染まって
帰る道”まぼろし”
わたしがこれまで歩んできた帰路は
まぼろしでありますように。。。
A n n a